第2章 第3節

第2章 ソビエト学校における生徒の自治

 第3節 社会的本能

 これまでに見てきたことを一センテンスでまとめておくと、次のようである。すなわち、組織的習熟は、集団的な作業を通して形成されるが、この集団的作業は、学校自治としての総会を主要な場として組織されるのである。こうした把握の上に立って、この節では、社会的本能について考察していきたい。

 クルプスカヤは、生徒を互いに分裂させ孤立させる学校、生徒を人間疎外におとしいれる学校を批判して、「連帯の学校」(注34)、連帯性を育てる学校となるべきことをしばしば説いている。その場合、彼女が連帯性を育てる手がかりとしているものは、子どもが本来備えている「ほかの人たちの役に立ちたい」(注35)という欲求である。この欲求は、「もっとも自然な自分の本能」(注36)であり、クルプスカヤは、それを子どもが備え持っている「社会的本能」と呼んだ。彼女は、この社会的本能という言葉で、ほかの人々の役に立ちたい、ほかの人々を理解し、共感し、連帯したいという要求を子どもが自然に備えていること、そうした要求が発達にとってきわめて重要な基礎的なものだという把握を示しているのである。

 クルプスカヤは、1909年の論稿「自由な学校という問題によせる」の中で、子どもの社会的本能について、次のように説明している。

「子どもたちを注意して見てきた人ならば、かれらのなかでは、自分の知識をほかの子どもたちに分けてやりたいと思う心がどんなに強いものであるかを知っている。読むことを覚えた子どもは、すぐさま、その術を自分や弟や妹に、まだ読めない自分の友だちに、召使いたちに、教えようとする。子どもの本性〔自然〕の活動性が、つまり、手にいれた知識を仕事に用いたいという願望が、かれをうながしてそうさせるのである。ここにはまさに、子どもの社会的本能、すなわちほかの人たちの役に立ちたいという願望があらわれている。たぶん、それは自己点検のおぼろげな要求のあらわれでもあるだろう。」(注37)

(注37)前掲書、「自由な学校という問題によせる」11ページ

 ところが、帝政ロシアの学校では、こうした子どもの社会的本能を発達させることについては、極力無関心であった。

「現代の学校は、大部分のばあい、むきわめてへたな訓育者である。それは子どもたちの社会的本能を発達させないだけでなく、逆に、あらゆる手をつくしてそれをおし殺している。」(注38)

(注38)同12ページ

 さらに、クルプスカヤは、「生徒のあいだでの自殺と自由な労働学校」のなかで、子どもの社会的本能をおしつぶすことが、子どもを自殺に追いやっている、と批判して次のように言っている。

「生徒に社会的本能を発達させること、生徒に環境についての理解を発達させ、どんなところにいようとも、つねに人びとの役に立つものになろうという意欲や能力を発達させることについては、学校はすこしも気をつかっていない。だが実は、この一事だけが人間を幸福なものにすることができるのであり、この一事が、現在若い、力にあふれた生命をかくもしばしば自殺においやっている孤独感、無用感のおそろしい精神状態からまもってやることができるのである。」(注39)

(注39)前掲書、「生徒のあいだでの自殺と自由な労働学校」19ページ

 ここで注意したいことは、社会的本能という場合の「本能」という言葉である。クルプスカヤは、この言葉を生物学的な意味で使用したのではなかった。矢川徳光の言葉を借りれば、それは、「決して生物学主義的な意味をおびさせられているのでなく、社会的・階級的存在としての子どもが、資本主義的支配体制によってその発達をゆがめられないとすれば当然、発現させうる素質という意味をもたされている」(注40)のである。

(注40)矢川徳光「集団主義教育の成立」『集団主義教育の基礎理論』(小川太郎編、明治図書、講座集団主義教育1)41ページ

 古いブルジョア的な学校を抜け出したソビエトでは、それまでの資本主義的な支配体制のために、たえずその発達がゆがめられてきた社会的本能に対して、全面的に発達する可能性が現実に与えられることになった。そして、この社会的本能は、次に見る社会活動家の育成の中で、全面的に発達するのである。

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