第1章 第3節

第1章 ブルジョア的学校自治の批判

 第3節 ブルジョア学校におる自治の本質

 クルプスカヤが、アメリカの学校の自治に対してかなり高い評価をしていることは先にみたが、本質においては、ヨーロッパの学校の自治と、原則的に異なるものであるというふうには、彼女は考えていなかったのである。この高い評価は、前にも触れたように、アメリカの学校が、当時のヨーロッパ諸国やロシアの専制下の学校に比べ、はるかに民主的なものであったという事実によって説明されるのである。また、革命前の彼女の論文が、亡命先からロシアの合法的な雑誌に投稿されたものであったため、アメリカの学校の階級的な性格に充分に触れえなかったことも合わせて理解する必要があるように思われる。

 事実、クルプスカヤは、革命後には、しばしばアメリカの教育のブルジョア的本質について触れている。例えば、1930年には、「こんにちの教育学文献のなかには、アメリカ共和国のなかで行われている政治教育の階級性はぜんぜん解明されていない。」とし、「形式のうえでは多くの興味あるもの」を提出しているが、「本質においては、どこからどこまでブルジョア的である。」(注13)と述べている。

(注13)前掲書、「学校における児童自治」154ページ

 また、革命前にも、クルプスカヤは、『国民教育と民主主義』を書く際の覚え書きの中で、次のように書いている。

「アメリカの学校は、理想から遠い。合衆国が高度に発達した資本主義国であり、資本主義制度の内部矛盾が限度に達し、階級的反目はきわめて尖鋭であり、ときにはたいへんするどい形をとることを忘れてはならない。すべてこれらのことは、学校にもきわめて明瞭に反映しないわけにはいかない。アメリカの学校の教授内容は、疑いもなく、ブルジョア・イデオロギーの刻印を帯びているのであり、若い世代は、しばしば労働者の民主主義の見解と理解とはほとんど共存し得ない見解を植えつけられているが、型の点ではアメリカの国民学校は、現存するあらゆる型のうちでもっともよいものである。」(注14)

(注14)クルプスカヤ『国民教育論』(勝田昌二訳、明治図書、世界教育学選集5)102〜103ページ

 このように、クルプスカヤは、アメリカの学校の中に資本主義的な限界を見ていたのであるが、それでは、ヨーロッパの学校も含めて、ブルジョア学校における生徒自治の本質といったものを、クルプスカヤはどのようなものとして見ていたのであろうか。筆者は、二十世紀初頭の学校自治に視点をあてて、次の3点に整理してみた。

 まず、ブルジョア学校における生徒自治の本質を規定している最も主要な側面は、現存体制が正義にかなったものであり、確固不動のものであることを確信している従順な市民を育成することである。このため、学校に資本主義国で行われている憲法が、しばしば敷き写しで導入されるのである。クルプスカヤの言葉を借りれば、「ブルジョア民主主義共和国の憲法を、そのすべての付属物もつけたままで、写しとった憲法が学校へ、いきなりに、または徐々に、導入される。」(注15)のである。これらの学校では、警察・法廷・監獄が設けられることが多い。こうした自治は、「ブルジョア共和国に誠心誠意奉仕する『市民』を育成することを目的としている。」(注16)空しい試みの一つなのである。

(注15)クルプスカヤ「学校の組織的・教育的影響」(1928年)『選集、1巻』134ページ

(注16)同134ページ

 ブルジョア学校における生徒自治の本質を規定している第二の側面は、この自治は、教師への子どもの従属をおおいかくした形態であって、教師の影響を排除するどころか、逆にそれを一掃柔軟にし、有効にしているということである。言い換えれば、この場合の学校への自治の導入は、教師と生徒集団との間の対立をそらし、教師の権威を高め、秩序を監視し、教師の指示の遂行を監視する機能を子どもたち自身の上へ置き換え、そうすることによって、子どもたちを教師に従属させることを目的としているのである。

 ブルジョア学校におる生徒自治の本質の第三の側面は、反集団主義的性格を明白に示していることである。クルプスカヤは、「学校裁判の問題によせて」という論稿の中で、学校自治の一形態としての学校裁判において、生徒が生徒を罰していることを厳しく批判している。そして、「友人の行為がなにによってひきおこされたかを理解するようにつとめ、またかれにどのような影響をあたえるか、同じような行為を繰り返さないために今後かれをどのように支えていくかを、みんなでよく考え、審議することが必要である。」(注17)と述べることによって、この学校裁判の反集団主義的な性格を指摘しているのである。また、クルプスカヤは、別の論稿で、委員会に選出された少人数の生徒が、力以上の仕事をし、生徒大衆が受動的であるようなブルジョア学校の自治を批判しているが、その際、次のように書いている。

「それらのアクチーフは過労になりがちであり、かれらの心には自尊心、自負心などが異常に発達しはしても、かれらは集団的に作業する能力はもちあわさないのである。」(注18)

(注18)クルプスカヤ「第二科学校における社会的 ─ 政治的教育」(1925年)『選集、1巻』93ページ

 以上、三点にわたって、ブルジョア学校における生徒自治の本質について見てきたわけであるが、その本質をひとことでまとめて言うならば、二十世紀初頭の資本主義社会での生徒自治は、ブルジョアジーの階級的支配の発現形態に過ぎなかった、ということになろう。そうであればこそ、古い、ブルジョア学校の自治に対する、新しい、ソビエト学校の自治の建設という課題は、社会主義社会を建設するという課題がちょうどそうであったように、人類史上初めての課題となったのであり、またそれゆえに、クルプスカヤらのこの分野での創造的な仕事に待たねばならなかったのである。

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